昭和62年 2月10日 東京ソフトウェアセンタ 第5システム担当へ主任データ技術員として転勤
- 職場はJR田町駅から歩いて5分くらいの近くにあるビルです。
- はじめに担当した作業はフリーダイヤルサービスの業務開始に向けた長時間安定化試験への支援作業で、新宿電話局別棟に設置されたフリーダイヤルサービス用交換機(NSP:New
Service Control Pointの略)の安定化試験でした。
- 今では"0120”で始まるフリーダイヤルサービスは当たり前に使われていますが、今から16年前にスタートしたサービスなんです。 (=^・^=)
- 話が少し横道に入りますが、転勤して間もなくした5月頃に体が異常になり、動けなくなってしまい10日間ほど休んでしまいました。
今でも原因は分らないのですが、はじめは風邪のような症状から腹痛となり、朝起きると腰痛に変わり
歩けなくなってしまいました。
- 緊急入院の支度をしてタクシーで病院に行きましたが、検査の結果何処にも異常が見られなく、その時痛みも少し治まっていたので何もせず自宅に帰ってきてしまいました。
2日〜3日経ってから、下腹部に5cm程の紫色のアザが出来ていたので、大腸の出血か何かで本当は相当危険だったんじゃないかと思っています。命拾いしていたのかも知れません。
┐(´-`)┌
- この体調異常の1ヶ月後の6月に40歳時に検診する多項目健康診断で、また異常となり暫く通院することとなってしまいました。
- 病名はストレス過多による不眠症でしたが、薬を服用して感じたことは、今までこんなに楽に休めたことがあったのだろうかと感じたことです。体がすごく楽な気分になり大地がしっかり自分を支えてくれているんだと実感することが出来ました。
その後回復して、仕事もバリバリとできるようになりました。
- 昭和62年11月9日 私が豊島支社の故障支援を担当していた時、台東支社で故障支援を担当していた、鈴木さんが突然胃ガンで亡くなったと言う知らせを受け、通夜に出席しましたが、大変残念でした。あらためてご冥福をお祈りしたいと思います。故障支援当時の自分も、徹夜が多く過労とストレスで体がボロボロでした。本当に人ごとではないです!
- 話を戻しまして、次の仕事はネットワークサービスの仮想専用線サービスへの開発参加です。
- 仮想専用線サービスとは、公衆回線(普通の電話回線)を使いながら、あたかも専用線(内線で接続する回線)と同じように利用できるネットワークサービスです。
- 仮想専用線サービスは大規模なソフト開発のため、基本に忠実な開発スタイルが取られました。
番号計画からスタートして、サービス仕様書、設計書、詳細設計書、プログラミング、単体試験、結合試験、総合試験へと進み、最後に安定化試験の行程を経て完成します。
- 私は参加してから約1年後の結合試験の段階で、D70用交換機ソフトの維持管理グループに変わることとなり、残念ながら開発から退くこととなってしまいました。
- 仮想専用線サービスは後に「メンバーズネット」の名称でサービス提供されました。しかし、サービス提供時期は郵政省の認可が遅れ、私が転勤してからもずっと後でした。
- なお、私は参加していませんでしたが、仮想専用線サービスと並行してアルファ課金サービスの開発も行われていました。
このアルファ課金サービスは後に「ダイヤルQ2」の名称でサービス提供されましたが、あんなにヒットするとは思いませんでした。不祥事も多すぎましたけど・・。
- 昭和63年の暮れ頃に「東京市内局番4D化」の検討が開始されました。(切り替えは平成3年1月1日)
平成元年 3月 1日 中央電気通信学園 応用技術部 教官として転勤
- 職場は小田急線「成城学園前駅」からバスで10分くらいの「中央電通学園前」を下車して真ん前ビルの5号館(教官棟)の3階です。
- 転入者向けのオリエンテーションが直ぐに行われ、月末に模擬講義を行うよう課題を言い渡されました。
- オリエンテーション後の最初の仕事は「電気通信主任技術者セミナー」向けの予想問題の作成でした。
OASYSワープロが当時オフィスのOA機器として使われており、私もラップトップ型OASYSを使って予想問題を作成しました。
- 過去に出題された問題を参考にして見よう見まねで作成しましたが、もう少し専門的知識を持っていないと的確な問題は作れないような気がしました。セミナー参加者は結構な費用を負担して試験直前の必死な段階で参加していますから。
- 次の仕事は平成元年度 新入社員の導入研修の「ディベート」の進行役でした。テーマは「農産物の輸入自由化の是非について」でした。
いきなりあるクラスを任されてしまい、どうやって進めて良いか分りませんでしたが、逃げるわけにも行かず恥を掻き掻き、進行と判定結果並びに、講評を行いました。(ディベートなんて初めてだし、討論というのはどうも苦手でした)
- 着任して直ぐに一人前の教官として扱われ、立て続けに業務を任される訳ですから、最初は色々無理がでました。
- 今考えてみると、大勢の人を指導する教官職は、人事異動ではなく教官試験に合格した人が行うべきだと感じました。
- 着任3週間後に「応対マナー」の指導も受けることが出来ました。
- その翌日に、オリエンテーションの時に出された課題の「D70ディジタル交換機の模擬講義」に立ち、先輩の教官から様々な指摘を受けました。
- 模擬講義の原稿のイントロは 「おはようございます。ディジタル交換機ハードウェア通話路系を担当します応用技術部の藤浪と申します。どうぞよろしくお願いします。」
と挨拶して 「本日は教科書第二編の時分割コネクタ装置について皆さんと一緒に勉強していきたいと思います。」
と言う具合に始めていきます。
- 模擬講義の後、「D70ディジタル交換機 基礎班」の研修スケジュールを渡されて担任教官として教壇に立つことが決まりました。
- 教壇に立つ迄、先輩の授業を撮影したビデオを見たり、教材の勉強をしたり、原稿を作って練習したりで大変でした。いよいよ担任教官として「D70ディジタル交換機
基礎班(期間:2週間)」の授業に立つことになりました。
- 出勤すると直ぐに教室の鍵を開けに行き、前庭で生徒全員が参加するラジオ体操をしてから教室に行き授業を始めました。
- 最初に課長から挨拶をしてもらい、その後、研修期間中の注意事項と食堂の利用方法などを説明します。
そして、1時限目の授業を開始して、その日の授業を何とか進めることが出来ました。そして、2週間はあっという間に経過して、初めての担任教官を無事終了することが出来ました。 ┐(´-`)┌
- 5月の連休後、訓練生たちがおみやげを買ってきてくれたのが大変うれしかったです。
また、卒業に当たっては、送別会を開き教官に記念品のプレゼントをして頂いたりで大変感激しました。
教官をやってて良かったな〜!と一番思う瞬間です。
- 転勤してから1年間は交換機の訓練を主に担当しましたが、同じ部内でパソコンの授業も行っていましたので、パソコンが根っから好きな私は、どうしてもパソコンの授業を行いたいと申し出て無理を言ってパソコンの授業を担当させてもらいました。
- しかし、年度替わりの時期は人事異動が多く、担当の教官が急に転勤してしまうため、授業の穴埋めに駆り出されて大変でした。平成2年の3月頃は、パソコンの授業の準備を行う矢先に交換機の授業の穴埋めをさせられてしまい、大変忙しい毎日でした。
- 経験したことのない授業の穴埋めをさせられたときは、休みの日も授業の練習をしなければならず、ビデオを見て授業の研究をしますが、土曜日の朝からビデオを見ていると前日までの疲れと眠気もピーク状態で、もうめまいがしてしまいました。(疲労困憊)
- 平成2年の5月22日に社外研修の「ディジタル交換機 基礎コース」を担当しているときに、肺炎による高熱が出てしまい、休むことも出来ず高熱のまま授業に立ちました。声がかすれて変だな〜と思って翌日病院に行って診察した結果、マイコプラズマ性
肺炎と診断されてしまいました。
- 社外研修は一般の人を対象に行う研修で参加費2万5千円/日を頂いて授業を行うため自分の都合で休むわけには行きませんでした。授業の準備は一人で進めていくために、当日は急に代わってもらえる人など居ないと言うのが実情でした。
- 中央電気通信学園で担当した授業
社外研修:1.「ディジタル交換機の基礎」、2.「パソコン通信入門」
社内研修:1.「D70ディジタル交換機基礎班」、2.「IPC30交換機」、3.「同期端局装置」、4.「BASIC基礎班」、5.「マルチプラン基礎班」、6.「ロータス123入門編」、7.「dBASEV基礎班」
中央電気通信学園は以上です。(次の転勤先は東京技術開発センタです)